2018-05-23 第196回国会 衆議院 文部科学委員会 第13号
今回の京都移転も含め、非常に大きな、先ほど申し上げたとおり、明治国家設立以来の大きな動きであるというふうに考えておりますが、ただ、残念ながら、私が聞き及んだところによりますと、この京都への文化庁の移転、私にとっても非常に大きな大決断、大英断であったと思いますが、このことについて余り国民一般に知られていない、文化庁ってもう移転したんだっけというような話を聞くこともあるというふうにお伺いをしております。
今回の京都移転も含め、非常に大きな、先ほど申し上げたとおり、明治国家設立以来の大きな動きであるというふうに考えておりますが、ただ、残念ながら、私が聞き及んだところによりますと、この京都への文化庁の移転、私にとっても非常に大きな大決断、大英断であったと思いますが、このことについて余り国民一般に知られていない、文化庁ってもう移転したんだっけというような話を聞くこともあるというふうにお伺いをしております。
百五十年前、誕生したばかりの明治国家にあって、近代化を牽引した岩倉具視はこう述べています。国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。 明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。今こそ、国民とともに、この道を前に向かって再び歩み出すときです。
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。 明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。今こそ、国民とともに、この道を前に向かって再び歩み出すときです。
じゃ、次はロシアと対峙しないといけないよというときに、そのときの日本は、日露協商の道も探ったし、日英同盟の道も探って、つまり、よその国をカードとして複数の選択肢持っていったところに明治国家の偉大さがあったと思うんですね。
国家観念の終えん、明治国家の解体、再編、国家主権観念の崩壊、複数政府信託論、国家観念は必要ありませんと、このように述べています。国家を媒介としない地方自治、あるいは国家統治権を媒介としない地方自治権はあり得るのかという議論がここで提起されなければなりません。 また、松下教授の本によりますと、政治主体としての主権市民、市民が基本の政治主体というふうに言っております。
私も今大臣が指摘された点も納得いくんですが、同時に、私の問題意識というのは、明治国家誕生以来、早く追いつけ追い越せの殖産興業。富国強兵は新しい時代はなくなりましたけれども、もともと、中央に国家の経営資源を集中させて、そこで国全体を富ませて、それを地方に配分するという国の形をつくってきたんだというふうに思っているんです。
もちろん、エリートに訴えるためには日本の豊かさを示す必要はあるんですけれども、明治国家の日本であれば、地図上で日本という国がどこにあるか知らない人が多かったわけですから、こういうことは必要だったと思うんですけれども、今や、もはやそういう問題ではなくて、やはりエリートだけじゃなくて、アメリカの大衆に、イギリスの大衆に、ロシアの大衆にどう訴えていくかという問題で、そうなるとやはり、まあお金が無限にあればそれもいいんですけれども
ただ、気分として、今これから国を変えるというのはやっぱり北国生まれで、明治国家のずっとこう流れを引いていますから、これを変えるのは今度北国からやろうな、やりたいなという思いで今論戦をやっているということを最後にちょっとお披瀝申し上げまして、安倍官房長官、どうですか、その平成版新奥羽越列藩同盟に自民党を脱藩して来られませんか。
もし地方分権という形で明治国家と逆のベクトルにやるならば、少なくとも今のその都道府県、市町村という制度では問題があるなと。そうすると、道州制を導入するのかどうなのか。実を言うと、この統治システムを考えるときに、やっぱり中央と地方の関係というのを相当厳しく見ていかないといけないというふうに思います。 例えば、私が長く滞在していましたフランスは、国会議員と市長さんとか、いろんな兼職ができる。
私は、そういう意味ではちょっと厳しいとは思うんですが、ただ、憲法二十条、八十九条、先ほど原意主義の立場でどうかというふうにおっしゃったんですが、私は、こういった宗教的なおおらかさが本来あるところに、かつての明治国家は明治憲法のもとで、むしろ一神教的な非寛容なものを持ち込んでしまった。
私は、この五カ条の御誓文こそが明治国家の国是であり、明治憲法の基礎となったと思います。 また、憲法の制定に際しましては、自国の歴史、国柄といったものを十分に考慮することが重要であると考えます。なぜならば、憲法の英訳はコンスティチューションでございますが、このコンスティチューションとは、国の仕組みやら成り立ち、すなわち国柄という意味があるからであります。
さもなきゃ明治国家は運営できませんから、これはある程度当たり前の話なんですが、後に行くに従って、日本は連帯責任がないから内閣の権限が弱くて、陸軍大臣は陸軍大臣、外務大臣は外務大臣でばらばらにやっていたからあの戦争を終結できなかったんだという話が出てくる。 これは伊藤博文の意図にはかなり反した。
先ほど、部落差別、部落民を一番下に置くということと、一番上に天皇を置くということをちょっと言って、余り天皇制のことは言わなかったんですが、日本の明治国家をつくった人たちの、非常に残念なことではあるけれども非常に賢い、悪賢いことかもしれないんですが、そういうサンドイッチにして日本国民を均質な国民に仕立てるための構造をつくってしまったということはあると思います。
の日本が、仮に天皇の神格的な主権、神聖にして侵すべからざる天皇の主権に基づく政治体制にあって、かつ、国民の意思に基づかないそのような政治権力が独立の軍事統帥権を有する国家のままであったとするならば、そしてまた、基本的人権のほとんどが法律の留保のもとに制約されていたとするならば、二十世紀の後半五十年間あるいは五十五年間、国際社会において日本が認知され、行動することができたか否かという点を考えれば、明治国家回帰願望
それが古代の律令国家でありますし、それから近代の明治国家であります。明治国家は、北の方のロシアが膨張して下ってきた、一方でイギリスがずっとユーラシア大陸を迂回してきて、両者がぶつかったのが日本と朝鮮の付近だ、日本はこれをどうしたらいいのかという話になって、必死になってイギリスと結んでロシアに対抗するという道を選んだというのが近代の日本です。
○姜参考人 その答えの一つとしては、例えば明治国家をつくる場合の伊藤博文が何を考えたかということを考えていきますと、新しい大日本帝国憲法を起草する場合に、国体、国の形というものはヨーロッパと同じような文明のスタンダード、つまりそれは立憲主義ということであります。つまり、憲法というものにのっとって君主制というものをつくる。
日本が明治国家以来営々とやってきたことが、営々とやってきたことというのは要するに近代国家づくりだったわけでありますけれども、結局この最後はこうした徹底した敗戦だったということがありまして、国家にかかわるということが何か非常にむなしいものになった。それから、一九四〇年代の体験ですね。これが、異常なナショナリズムが高揚された。たくさんだということはあったと思うんです。
戦争中もそうかもしれないけれども、明治国家のときにも使っていた。しかし、よくよく調べていくと幕末のときにもう既に使っていた。徳川幕府の高田屋嘉兵衛のロシア貿易をするときにも日の丸は使っていた。木曽義仲も日の丸の扇を持っていた。
それで、日本の伝統は、初めは徳川幕府でしょう、その次は明治憲法で、明治国家で、明治国家の場合も上からですね、欽定憲法と内田さんおっしゃったけれども、まさにそうなんですね。 だから、私が大事なのは国民主権だと言ったけれども、国民主権というのはそれを市民化することですよね。
明治国家は精神的権威と政治的権力の一体化したものであり、そうなると、国家体系そのものが価値の独占的決定者となる。国家活動の正当性を内部に持つことになる。国家を超えた基準、規範には服さないでもよいことになる。さらには、私と公の別がなくなり、私と国家が合一化し、国家の中へ私的利害が無制限に侵入してしまう。
司馬遼太郎さんの「「明治」という国家」に記載をされております、明治国家に対するある種の積極的評価でございました。 ただ、司馬遼太郎さんにいたしましても、日中戦争への突入あるいはノモンハン事件についての司馬さんのお考えというものは、私どもに大変重大な意味を投げかけているのではないかと思います。